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慰安婦劇女優が悔悟の証言 挺対協の背信、そして旧社会党との関係-4

日本の誠義を反故にした理由


一体、挺対協は東丘さんに代表される日本人の誠義も反故にし、屁理屈をこねまわしながらアジア助成基金までをも妨害し、執拗に反日活動を続けたのか? 彼らのミッションは日韓工作分離であろう。慰安婦問題が解決してしまったら困るのだ。いずれ南北統一の暁には、日本から数兆円に及ぶ賠償金をスムーズに引き出すため、日本人の朝鮮半島に対する贖罪意識を醸成させておく必要がある。91年11月、社会党によって東京で開催されたシンポジウムに参加した尹氏は、アジアの平和における問題点において韓半島の”分断”を指摘し「韓半島は統一せねならないのだ、そしてその分断の責任は日本にあるのだという考え方で”アジアの平和と女性の役割”の第一回のセミナーが東京で今年5月に開催されました」(『日本の戦後責任と従軍慰安婦問題』社会党ブックレット)と発言している。ちなみに社会党はソ連時代の共産党から多額の政治資金援助を受けていたことが判明している。
 挺対協と社会党の異様な動きが活発化した91年前後は共産陣営が大きく揺らいでいた時期だった。89年にベルリンの壁崩壊と天安門事件、90年にはソ連共産党の一党独裁放棄(91年8月にクーデータが起き、共産党は12月に解散、ソ連も終焉を迎えた)している。両者ともソ連という大スポンサーの崩壊で、新たな金づくるとして日本にターゲットを絞ったのではないか?
 慰安婦問題はその後も、拉致問題や北朝鮮内の非人道的な人権抑圧の相対化のために利用され続けてきたと思われる。吉田清治氏まで動員した「強制連行」アジアの女性20万人性奴隷」などという実態を伴わないキーワードに固執し続けたのは、拉致問題での北への批判の火を消そうとしたしか思えない。拉致実行犯辛光洙釈放嘆願書署名など、土井たか子氏を始めとする社会党の拉致隠蔽工作には前歴がある。

慰安婦劇女優が悔悟の証言 挺対協の背信、そして旧社会党との関係-3

挺対協への日本の左翼からの批判


時期は異なるが、挺対協は日本の左翼グループ ”日本の戦後責任をハッキリさせる会”からも批判されている。代表の臼杵恵子さんは会のHPで”「基金」受け取り7人を差別した韓国「市民連帯」の人権感覚を疑う”と批判している。題し、アジア基金から500万円受け取った7人の元韓国人慰安婦たちに、「日本からの汚れた金を受け取れば、本当の娼婦になる。7人は娼婦だ!」などと挺対協が罵声を浴びせ、慰安婦同士で亀裂が生じたことに触れている。実際に受け取ったのは7名を含む計61名で、日本政府は彼女たちの名誉を重んじ名前などを公表しなかった。
 話を91年5月に戻す。戸井たか子氏や清水澄子氏、三木睦子氏やキリスト教関係者が呼びかけ人となり、北朝鮮と韓国の代表団の女性を招き、東京(5月31日)と神戸(6月2日)でシンポジウムが開催されている。北からは最高人民会議常設委員会副委員長や祖国平和統一委員会書記局参事、朝鮮対外文化協議会指導員などが参加。韓国からは韓国キリスト教協議会副会長や尹氏などが参加。土井氏が『アジアにおける歴史の清算という日本人にとっての古くからの課題、特に朝鮮民族に対する植民地支配をどう償うのかということを強く自覚しなければならない』と挨拶し、尹氏は『戦争の後半期には14歳から30歳以上の女性まで強制連行され、一人の女性が相手にした軍人は、一日に数十名から百名に達する。(略)元日本軍軍人は、二百名の慰安婦を潜水艦に乗せて機雷にぶつけ殺したと証言している』
『ふじん新聞』(91・6・25)軍事専門家は「潜水艦は乗務員の定数が決まっていますので200名もの慰安婦を潜水艦に乗せることは不可能です。この発言一つだけとってもプロパガンダとしては、あまりにもお粗末ですね」と苦笑した。
 92年に入ると「ふじん新聞」には”日本の戦後責任=補償”という言葉が頻繁に登場し始める。1月、宮沢元首相の訪韓と謝罪。91年の朝日慰安婦報道の余波もあり、北朝鮮がこの気運を見逃すはずがない。
 北朝鮮では「従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」(朝対委、現・朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会)が同年8月に組織され、尹が東岡さんたちを切り捨てた2か月後の12月、東京で開かれた「『従軍慰安婦』等
国際公聴会」で挺対協と交流して協力関係を結んだ。同時に、米国ではWCCW(ワシントン慰安婦問題連合)が結成、翌93年、本岡氏の国会質疑が基となって河野談話が発表された。

慰安婦劇女優が悔悟の証言 挺対協の背信、そして旧社会党との関係-2

旧社会党議員の暗躍


この手紙に出てくる清水議員と本岡議員は、恐らく旧社会党の議員で清水澄子氏、本岡昭二と思われる。清水澄子氏は「朝鮮女性と連帯する日本婦人会連絡代表」などの肩書をを持ち、90年度には新潟発の”日朝友好親善の船”に乗って訪北。親北派として知られていた。民間基金、続いて村山内閣時にその延長線上に設置された”アジア平和国民基金”にも反対し、挺対協と一心同体だった。1990年12月28日の参議院外務委員会において、いわゆる「従軍慰安婦」について女子挺身隊として「強制連行」があったのではないかという趣旨の質問を行い、92年にはあの吉田政治を予算委員会の参考人として要請。「実現しなかったことは非常に残念です」などと述べている。あの時点で国会において吉田証言の矛盾や虚偽が追求されていたなら、クマラスワミ報告など、慰安婦問題の流れは変わっていたかも知れない。本岡昭次氏は80年に旧社会党議員として当選し、98年に民主党に鞍替えしている。慰安婦問題に関して、国連で”日本軍による性奴隷SEX SLAVE"という言葉を定着させた戸塚悦郎氏を国連でロビー活動をさせた黒幕だと言われている。産経新聞の取材によると「慰安婦を性奴隷と規定することには違和感を抱き、「戸塚と言い争った」と語る」(14.5.25)とあったので、実際にどんな言い争になったのか1月、本人に取材した。結論から先に言えば、本岡氏は戸塚氏を慮ったのか「性奴隷は人権委員会が決めたこと、、、」と主張。「でも戸塚さんは著書などで私が性奴隷を広めたと誇らしげに語っています」畳みかけると最終的には「確かに慰安婦の方々にとっても”奴隷”という言葉は、、、」と困惑を隠さなかった。
余談だが、本岡氏は90年代、中国に慰安婦問題を訴えに行ったが、中国政府側から「慰安婦問題に関し事実調査したが、当方では認知しておりません。中国には人権問題は有りません」などと一蹴されたという。昨年、中国が慰安婦問題をユネスコに登録申請した背景に、こうした日本人たちのロビー活動の蓄積がある。
 社会党時代に「政府が関与し軍が関わって、女子挺身隊という名前によって朝鮮の女性を従軍慰安婦として強制的に南方の方に連行したということは、私は間違いない事実だという風に思います」(91年4月1日参議院予算委員会)などと意見を述べるが、証拠は一切開示されていない。また「従軍慰安婦に関する戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」(戦時性的強制被害者問題解決促進法案) を起案したため、別名・本岡法案とも言われている。しかも、この本岡質疑を尹氏の活動を支えていたと推定される在日の金英姫氏が傍聴しているのだから、社会党と挺対協の蜜月ぶりがうかがい知れる。実際、自宅には挺対協から本岡氏あての感謝状が飾られていた。本岡法案の原案を持って戸塚氏と一緒に韓国の挺対協を訪ねた際、尹氏から「こんな文言は甘すぎる」と突き返されたエピソードなども語ってくれた。
 その後、尹氏が北出身の人間だったことが社会党系の女性団体の発行していた『ふじん新聞』で判明した。92年、平壌で開催された日本の戦後責任を問うシンポジウムに、清水澄子議員など日本から33名(在日も含む)や韓国から30名が参加している。4名の元慰安婦の証言などを聞き「翌朝、メンバーは5台の乗用車と4台のバスを連ねて金剛山に向かった。金剛山登山は南の代表の強い希望。代表の一人尹貞玉さんは金剛山が故郷(略)」(『ふじん新聞』92・10・10)とある。
 いずれにせよ宮澤元首相が訪韓した92年は慰安婦プロパガンダが猛威をふるった年である。戸井たか子氏からの札束や、こういった社会党議員たちの働きにより、尹氏とその黒幕たちが”慰安婦問題は民間レベルではなく国家予算が動くほどの大問題に転嫁できる”と踏んだのは想像に難くない。一人女性活動家の尹氏が北海道から沖縄まで日本各地の朝鮮人慰安婦の痕跡や、タイ、ハッチャイ、パプアニューギニアまで慰安婦調査の経費も、もしかしたら社会党からのお金で成し遂げられたのではないか?と憶測したくもなる。
 東岡さんがこういう。「私たちが挺対協のために集めたお金は25万円とささやかです。かたや経済大国日本の国家予算が動くとなれば、尹氏の狙いが変化したのも分かります。とはいえ、本当に慰安婦の慰霊を考えているのなら、日本人の善意のお金”25万円”を拒絶する必要があったのでしょうか?我々が集めたお金が100億円なら受け取っていたのでしょうか?人の誠義とは金銭の大小に換算できるものではありませんよね。尹さんは署名してくれた25,000人の誠義をどう受け止めたのか?お金の授受はのちに不都合が生じるからと断ったにせよ、何故署名まで拒絶したのか?矛盾や嘘を内包したまま運動を続けねばならない宿命を背負い、私たちの介入を一切拒絶する必要に迫られたのではないでしょうか?挺対協は日本人の誠義有る謝罪が欲しかったのではなく、あくまでも未来永劫、政治カードとして利用できる。”日本国家の謝罪”が欲しかったでしょう。社会党と手を組み、更に、我々とも活動できたはずなのに、あえて私たちを切り捨てた背景には、とても尹氏の一存とは思えない背景があると思います」