艶歌に酔う日々

艶歌が良い、日韓仲良く!

私の命の恩人は元慰安婦だった。

私の幼い時(70年代)の生活はおしんには比べることは出来ないけど貧しい生活そのものだった。我が娘にお父さんはね、、幼い頃に貧乏だったので麦ごはん、サツマイモ、ジャガイモ、トウモロコシ等自然食を食べたのよと言ったら、良いもの食べたねという。全く呆れる。
その時は食べ物は何とか解決できたけど生活に余裕がなかったそういう時代。



私は幼い時に病気が多くて弱かったと親父から聞いた。
夜寝るときに状態が悪くなると、親父は急いで私をおんぶして村にいた女医に走って連れていた。
そこでおんぶされたままお尻に注射を打たれて痛かった記憶がある。
この繰り返しは多分小学校に入るまで続いたんじゃないかと思われる。
女医は一人暮らしで、友人のお父さんが面倒を見て上げ、叔父の離れた部屋を借りて暮らしていた。
女医はとこから来たか知らなかったけど、村と近くの村の患者たちの面倒を見ながら生計を立てていた。
小学校の時、村の大人たちから聞いた話。
何時からかは覚えてないけど、村に引っ越ししてきた人がおって、その人は村に薬局を開いた。
ある日、女医が近くの村へ患者を診てあげた後帰り道に、向こうたら警察がやってくるのを見て、慌ててハンドバックにあった薬品を捨てて歩いていたと、すると警察がやってきて職務質問されたと。
医療行為をやったんじゃないかと(不法だから)。すると、女医師は用事があって帰る道だと言うと警察はそのまま帰ったと聞いた。村の大人たちはさらに言った。
警察も状況を知っていたけど女医師が可哀そうだったのでそのまま帰っていたんじゃないかと。
そしてその女医を通報したのは薬局の人ではないかと。



私が大きくなって、今は亡き父から聞いた話。
幼い時はあまりにも病弱だったので、その都度女医に走って駆け付けたと。時には女一人寝る部屋に慌てて診てくださいと告げると女医も慌てて待ってくれと言われた。着替えてから診てもらったと言った。
ある日、女医はお父さんに私を養子としてもらいたいと言ったと。
父はどうしようか迷ったけどお母からいやだと反対され養子に出さなかったと言った。
そのときは母性が強い時期でもあった。ドラマも映画もそういう内容。
父曰く、お前が今はこんなに元気でおられるのもその女医のお陰だから、後で恩返ししなさい、謝礼も充分できなかったからと言われた。だけど、そのあとは女医について全く頭の中にはなかった。


時が流れ、日本にて生活をしながら無料通話ができる時代になって、故郷の友たちと長電話をする機会があった。その友たちから衝撃の話を聞くことになった。
友たち曰く、90何年だったか覚えてないけど床屋で新聞を読んでいたら元慰安婦だったおばあさんの葬儀内容だったと、読んでいく中に故郷の名前が出てくるわさらに故郷の特徴まで出てくるので、なんとその慰安婦は女医だったと解ったと。
まさか、その人が元慰安婦だったなんて、友たちもびっくりしたと。
村で女医の面倒を見てあげた人が友たちのお父さんだったけど、そのお父さんを含め村人は女医が元慰安婦だった事実を知る人は誰も居なかっただろう。
新聞記事によると、女医は村の人たちと観光に出かけたとき、偶然にもその場所が江華島(北朝鮮の砲撃事件の地)だったと。


女医はずーと江華島が北朝鮮だったと知っていたので故郷へ帰るのを断念し、ある村で暮らしていたけど、村の人たちの親切やおかげで生活が出来たと。そしてある時、村の人達に誘われ旅に出かけたところが自分の故郷だと解ったと。
女医が何歳に故郷を離れ偶然故郷に戻ったか私は分からないけど、多分何十年ぶりだろう、女医はどれほど感無量だったかなぁ。
親たち、兄弟または親戚たちに会えただろうか。



その後、友人から次の話を聞いた。
女医が故郷に戻った時に、きっと死んだと思っていた親戚が不審に思い、北のスパイだと警察に告げたそうだ。それで女医のはとこに当たる人が故郷へきて、女医が北のスパイではないことを村人に確認してもらったと。
はとこの人が訪ねてきたときに友人も故郷に居たので、その人が自分の部屋で一緒に寝たと話してくれた。
そのあと、女医は自由の身になりどういう経緯でソウルで暮らしたかは知らない。
歴史には模試が存在しないけど、もし私が女医の養子になっていたならば、一生を日本を恨みながら生きていたかも。


添付写真は、女医の葬儀の様子を友人が直接取った写真である。